関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺についての資料を集めた倉庫ブログ「記憶を刻む」へのリンクを、証言、公式記録、著名人の反応など、テーマ別に分けて張ってあります。ご興味のあるテーマの入り口から、ブログに行って見てください。
「記憶を刻む 1923年関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺関連の資料と証言」
■流言と混乱の状況についての証言 → 証言集「流言と混乱」編
■朝鮮人迫害・虐殺の目撃証言 → 証言集「朝鮮人迫害」編
■行政機関の公式記録と要人の肉声 → 公式記録と要人の証言
■朝鮮人虐殺を伝える当時の新聞記事 → 虐殺事件・裁判関連記事
■中国人虐殺についての資料 → 中国人虐殺関連資料
■当時の著名人たちは事件をどう受けとめたのか → 著名人の反応
■その他の情報とお知らせなど → その他
サンプルとして、黒澤明(映画監督)と清川虹子の証言をここに掲げておきます。
黒澤明【映画監督。当時中学2年生】
“ 私はあきれ返った。
何をかくそう、その変な記号というのは、
私が書いた落書だったからである”
その夜(1日夜)人々を脅かしたものは、砲兵工廠の物音である。(略)時々、砲弾に引火したのか、凄まじい轟音を発して、火の柱を吹き上げた。その音に人々は脅えたのである。私の家の町内の人々の中には、そのおとは伊豆方面の火山の爆発で、それが連続的に火山活動を起しつつ、東京方面に近付いているのだ、とまことしやかに説く人もあった。(略) 焼け出された親戚を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。/私はドキドキして一緒だった兄を見た。/兄はニヤニヤしている。/その時、/「馬鹿者ッ!」/と、父が大喝一声した。/そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。 町内の家から一人ずつ、夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。/仕方がないから、私が木刀を持って出ていったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。/ここから朝鮮人が忍びこむかも知れない、と云うのである。 もっと馬鹿馬鹿しい話がある。町内の、ある家の井戸水を飲んではいけないと云うのだ。/何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だと云うのである。/私はあきれ返った。/何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。 私はこういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。
(黒澤明『蝦蟇の油―自伝のようなもの―』岩波現代文庫、2001年。初刊は1984年)
流言が招いた当時の混乱についてもっと読む→ブログ「記憶を刻む」の証言「流言と混乱」編へ
清川虹子【女優。当時12歳。震災時は上野音楽学校へ避難】
“ 男たちは、手に手に棒切れをつかんで、
その朝鮮の男を叩き殺したのです。
わたしはわけがわからないうえ
恐怖でふるえながら、
それを見ていました”
朝鮮の人が井戸に毒を投げ入れたから、水は一切飲んではいけないと言われたのは、この日(9月3日)です。/朝鮮人が襲撃してくる、警戒のために男たちは全員出てくれ、どこからともなく言ってきて、父も狩り出されました。いわゆる「自警団」です。 だれが考えたのかわかりませんが、日本人は赤い布、朝鮮人は青い布を腕に巻くことになり、父は赤い布を巻いて出て行きました。すると1時間ほどして、日本人は青で、朝鮮人は赤だったとわかって、父がまちがって殺されてしまうと思い、私は泣き出してしまいました。 あとで、すべてはデマだとわかりましたが、そのどさくさでは確かめようもなくて、こうして朝鮮人狩りが始まっていったのです。 朝鮮人を1人つかまえたといって音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。わたしはわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。 大震災のあとに起きたこうした事件のかずかずは、これに遭遇した人のいろんな本に、それぞれの体験として書かれていますが、それは火や激震そのものよりもずっと恐ろしく、ぞっとする人間のドラマだったと思うのです。
(清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)
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