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−関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネット上の流言を検証する−

20分でわかる「虐殺否定論」のウソ

All the lies in “denial of massacre” revealed in just 20 minutes.

その3「虐殺の証拠はない」は大間違い

朝鮮人が虐殺されたことを示す証拠はない、という人々がいます。あるいは、証拠とされているのは証言だけだと思い込んでいる人々がいます。

これらはまったくの間違いです。各地で虐殺が起きていたことは、行政や司法の記録によっても、当時の報道によっても確かめることができます。もちろん証言も、行政関係者や知識人の言及、庶民の回想など、多様なかたちで残されています。

行政文書に記録された朝鮮人虐殺

もっともはっきりした「証拠」は、53件の朝鮮人襲撃事件が刑事事件として立件されている事実そのものです。一部の事件については判決文を読むことができますし、当時の報道を通じても事件や裁判の概要を知ることができます。それらを読むと、朝鮮人殺傷事件が正当化しようがない一方的な暴力の行使、まさに虐殺であったことが分かります。

 

この53件の事件について包括的にまとめたものとしては、司法省の文書「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」に掲載された「鮮人を殺傷したる事犯」というリストがあります。このリストには、日時、場所、犯人と被害者の名前、そして「棍棒または割木にて乱打し殺害す」「日本刀をもって斬り付け殺害す」と、ごく簡単に事件の内容が記された53件の事件が掲載されています。この53件で殺された朝鮮人を合算すると233人になります。この53件のほかに、朝鮮人に間違えられて日本人が襲われた46件の事件(被殺者58人)、中国人4件(同3人)が同文書にまとめられています。ただし、これらは立件されたものを数えているだけです。立件されたのは虐殺事件のごく一部ですので、この233人を「虐殺された朝鮮人の総数」と見ると間違います。

 

朝鮮総督府が独自に調査した結果も残されています。それによれば、殺された朝鮮人の「見込み数」は東京府だけで約300人、関東一円で813人となっています(朝鮮総督府警保局「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況」)。

 

民間人による殺害のみを対象とした上の二つに加えて、軍による殺害についても記録が残っています。1980年代に東京都公文書館で発見された「戒厳司令部詳報」中の「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」には、軍による朝鮮人、日本人、中国人の殺害の記録が残されていました。この「調査票」に、先述の司法省の文書に残る軍による殺害の記録を合わせると、朝鮮人39人(他に中国人200人、日本人27人)となります。

 

これらに加えて、警視庁『大正大震火災誌』などの行政機関の報告にも、各地で朝鮮人迫害や殺傷事件が横行した事実が記録されています。

◉司法大臣が日記に記した「亀戸で200人虐殺」

政府要人や行政関係者の証言もあります。たとえば当時の司法大臣、田健治郎は、震災から5日後の9月5日の日記で、朝鮮人虐殺について書き残しています。田は「震災激甚、人心危惧の結果、流言蜚語盛んに起こり、なかんづく、朝鮮人に対する虚構的反感、大いに人心を動揺させ、所在鮮人を殺戮し、すでに三百人に上り、その勢いの○趨、無辜(むこ)の鮮人まさに挙げて俎上の肉となす」「使節が告げるところによれば、大川端において鮮人六十名、亀戸において鮮人約二百名、熊谷駅において百二十人、訛伝のため故なく虐殺」されている(○は読み取れず)と記し、治安の回復が急務だとつづっています(『田健治郎日記』)。警視庁監察官や横浜地方裁判所の判事たちの残した文章にも、朝鮮人迫害・殺傷の描写があります(『現代史資料6』)。

 

さらに、作家や知識人などの回想にも朝鮮人迫害・殺傷や流言の描写を見ることができます。たとえば女優の清川虹子の自伝には、上野音楽堂近くの電柱に朝鮮人の死体が縛りつけられているのを見たという記述があります。シャープの創設者である早川徳次も、朝鮮人の男が竹槍で刺されるのを目撃したと書き残しています。

 

ごく普通の住民が経験した流言や朝鮮人迫害・殺傷の事例も、回顧録や、行政・学者がまとめた震災体験集の中に多く残されています。もちろん在日朝鮮人団体による被害者の証言記録、市民団体による地域での聞き取りなども少なくありません。1998年、千葉県八千代市では、住民が残した手記に基づいて虐殺現場を発掘したところ、遺骨が発見され、警察で調べた結果、当時の遺体であることが確認されました(朝日新聞1999年1月12日付)。現在では、近所のお寺で供養されています。

 

もちろん、いつの時代もそうでしょうが、公的機関の文書の記述がすべて正しいとは限りません。自分たちの組織の失敗を隠したり、つじつまあわせのために数字をごまかしたりすることがあるからです。証言もまた、何日の何時に目撃したのか、殺されたのは何人かといった正確さを求めるには限界があります。報道にも誤報や不正確な記事があり、読み方に気をつける必要があるでしょう。

◉虐殺された正確な人数は分からない

それでも、数多く残された行政や司法の記録、当時の報道、目撃証言をつきあわせれば、流言が事実ではなかったこと、罪のない朝鮮人が関東の至るところで理不尽に殺されたこと自体は、否定しようがない事実であったことは分かります。だからこそ当時も、震災の混乱が落ち着いた頃にはそうした認識が一般的になっていたのです。

 

ただし、殺された朝鮮人の数がどれほどに上るのか、その正確な数字は分かっていません。

 

先に紹介したように、立件された53件の殺傷事件の被殺者数を合計すると233人になります。しかし、この「233人」は「殺された朝鮮人の総数」ではありません。その理由は、①「検挙の範囲を顕著なるもののみに限定する」(「朝鮮問題に関する協定」参照)という政府の方針があり、すべての事件が立件されたわけではない(立件されても被害者数を少なく見積もっている)、②軍や警察官による殺傷事件が含まれていない、③そもそも行政が把握していない事件も多いと思われる―からです。世の中が落ち着いて以降の新聞報道や数多く残る証言などと比べたとき、「233人」は明らかに過少です。朝鮮総督府の見込み数「813人」にも、②③があてはまります。

 

上海に拠点を置く朝鮮独立運動団体の機関誌「独立新聞」が、日本政府の厳重な監視をかいくぐって行なった調査の結果、「6661人」という数字を発表しているのは有名です(『現代史資料6』)。ただし、これもまた正確とは言えません。

遺骨を判別できないように処置

正確な被害者数が分からない最大の理由は、当時の政府の方針にあります。政府は殺害された朝鮮人の遺骨と一般の震災による死亡者の遺骨を「判明せざる様処置する」ことを関係機関に指示するなど、虐殺の規模が分からないように努めました(「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況」)。政府は、虐殺の全貌が明らかになることが、朝鮮本土の朝鮮人たちに動揺を与え、日本の統治を揺るがすことを恐れたのです。

近年の研究書では、殺された朝鮮人の数については「数千人」という幅のある表現をしていることが多いようです。内閣府中央防災会議の専門調査会の報告書では、殺害された朝鮮人と中国人、そして朝鮮人に間違えられて殺された日本人の総数を「震災によって死亡した人数の1%から数%」と推定しています。これはほぼ、1000人から数千人ということになります。状況を総合的に検討したとき、そこまでは言えるということでしょう。同時に、それ以上に明確な数字を示すことは現状では難しいということでもあります。

 

■このページの引用資料

「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」(『現代史資料6』)

「朝鮮問題に関する協定」(同上)

「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況」『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料4』(緑蔭書房、1996年)

「戒厳司令部詳報」(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係史料』日本経済評論社、1997年)

『田健治郎日記』1923年9月5日条(国立国会図書館憲政資料室所蔵)

 

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