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−関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネット上の流言を検証する−

20分でわかる「虐殺否定論」のウソ

All the lies in “denial of massacre” revealed in just 20 minutes.

その4震災直後の新聞のデタラメ

「不逞鮮人1千名と横浜で戦闘 歩兵一個小隊全滅か」―ネット上に、こうした類の、朝鮮人暴動を伝える震災直後の新聞記事をアップしている人々がいます。

彼らは、これらの記事の存在こそが、朝鮮人暴動が流言ではなく事実であった動かぬ証拠だと考えているようです。しかし実際には、それらは交通や通信が途絶えた震災直後に氾濫したデマ記事の類にすぎず、その後、行政機関の報告でも「虚伝」として紹介されているものです。この時期は、「伊豆諸島沈没」「富士山爆発」「名古屋壊滅」など、様々なデマ記事があふれました。富士山の爆発と同じく、新聞がさかんに伝えた朝鮮人暴動も、誰も実際には見ていない「幻」だったのです。

「朝鮮人暴動記事は虚報」が歴史的評価

東海大学の山本文雄教授(産経新聞の論説委員も務めた方です)が明治以降のメディアの歴史をまとめた『日本マス・コミュニケーション史』(東海大学出版会、1970年)には、関東大震災期のメディア状況について以下のように書かれています。

 

「当局も信頼できる情報をえられず、流言の波に巻き込まれて、全く手に負えない状態になった。そのうえ新聞も根拠のない風説を事実のように報道して恐怖に拍車をかけている。当局が混乱したばかりでなく新聞報道も混乱していた」

 

山本教授は、この一文に続けて、当時の風説記事の例として「朝鮮人が放火」「朝鮮人が山本首相を暗殺」「朝鮮人が軍隊と激突」といった記事を並べています。朝鮮人暴動記事は虚報だった―これが歴史的に定まった評価なのです。

 

このことは、同時代の人々にとっても常識でした。たとえば、明治以降いくつもの新聞で記者として活躍し、記者育成に尽くしたことで、「新聞の鬼」との異名をとった山根真治郎(1884年生まれ)は、震災から18年が経った1941年(太平洋戦争が始まった年)に、著書『誤報とその責任』の中で、関東大震災期の新聞についてこう振り返っています。

 

「悪質な風説は事変とか争乱とか天災地変のような時に多く発生する。大正12年の関東大震災の時は人心徨惑して風説百出し、さしも冷静を誇る新聞記者も遂に常軌を逸した誤報を重ねて悔を千歳に遺した事は今なお記憶に新たなるところである。いわく在留朝鮮人大挙武器をふるって市内に迫る、いわく毒物を井戸に投入した、いわく徳富蘇峰圧死す、曰く激浪関東一帯を呑む…数えるだにも苦悩を覚える」

(読みやすさを配慮して一部漢字を開いて新かなにした)

内務省が1926年に否定している「ネットDE真実」

これはまた、当時の行政機関の認識でもありました。警視庁は震災の2年後、1925年に発行した震災報告『大正大震火災誌』のなかで、「災後東京市内の日刊新聞紙が発行不如意なるに乗じ、近県発行新聞紙の競争的移入行われしが、中には流言浮説を不用意に掲載して、人心を動揺せしむるものなきにあらず」と指摘しています。

また、内務省が26年に発行した『大正震災志』では

「交通通信がすべて途絶した当時であるから、東京横浜市民さえ、眼前の惨害より他の一切は全く知らなかった。まして他地方の人達はただただ張膽駭目するのみで、あせりにあせってもその被害状況をつまびらかにし得なかったのである。当時各地方新聞が号外もしくは本紙において報道したものの中には、随分思い切ったものがあった。その中より数種を転載して、当初暗黒の状をしのぶ一端とする」

として、震災直後の様々な誤報・虚報を十数種、紹介しています。そのなかには「横浜で1000人の朝鮮人と衝突して一個小隊が全滅」「朝鮮人2000が御殿場を襲撃」といった記事もあります。ちなみに前者はネット上で「朝鮮人暴動の証拠」としてしばしば見かける記事と全く同じ内容です。

 

戦後まもなく法務府(法務省の前身)特別審査局から発行された吉河光貞『関東大震災の治安回顧』(1949年)でも、「全国各地の新聞紙はいたずらに報道の新奇を競い、這般の情勢を煽情的に映出し、各種の流言的記事を撒付してますます人心不安を助成」したと指摘されています。

 

なぜ、誤報や虚報がこれほどまでに横行したのでしょうか。

 

1923年9月1日、東京の中心部は焼失し、交通機関と通信施設は壊滅しました。このとき、都心の新聞社20社のほとんども被災。東京日日、都、報知新聞の3社は焼け残りましたが、わずかな号外を出すのが精一杯という状況でした。大混乱が続き、まともな取材もおぼつきません。こうした中で、とくに地方紙を中心にいい加減な記事が横行したのです。避難民がまことしやかに語る流言をそのまま書いたものも少なくありませんでした。「富士山爆発」「伊豆諸島海中に没す」「山本首相暗殺」「名古屋壊滅」といった記事が氾濫し、ときには実際にそれを目撃した人の証言として、それどころかときには当局の発表と称して掲載されました。

 

富士山爆発は笑い話で済みますが、「朝鮮人の暴動」という流言記事は治安悪化に拍車をかける可能性がありました。そのため、内務省は9月3日、「朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝にわたること極めて多く、非常の災害により人心昂奮の際、かくのごとき虚説の伝播はいたずらに社会不安を増大するものなるをもって、朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざるよう御配慮」されたしという内容の「警告書」を各新聞社に送付します。さらに5日には朝鮮人問題についての報道そのものを禁止してしまいました(10月20日に解禁)。7日には、出版を含む「流言」を、罰則をもって取り締まる治安維持令が発せられます。それでも、10日くらいまでは地方紙では流言記事が出ていたようです。

 

しかし世の中が落ち着く頃には、朝鮮人暴動を伝える新聞記事がデマであったことは常識となりました。

 

当然の話です。当初の混乱が落ち着いてみれば、「不逞鮮人300余名が手に手に爆弾を携え」て横行するのを目撃した人は誰もいなかったし、「上水道に毒を散布」した事実もなかったし、「碓氷峠の上から列車爆破を企」てたと警察に自白したという朝鮮人も存在していなかったのですから。警視庁がまとめている流言の一覧とつきあわせてみれば、こうした新聞記事の多くが流言を書き写したものにすぎなかったことがよく分かります。

警視庁でまとめた流言については内閣府中央防災会議専門調査会『1923関東大震災報告第2編』第4章「混乱の拡大」にリスト化されて掲載されている

「朝鮮人暴動」記事の存在は新発見ではない

ネット上にこうした流言記事をアップして、「朝鮮人暴動」の証拠を示したつもりでいる人々は、「新聞記事に書いてあるから事実だ」と単純素朴に考えているようです。彼らはこうした当時の事情をまったく知らないのでしょう。

 

もちろん、「これまで流言記事と言われてきたが、実はこれらの記事は事実を伝えている」と主張することは可能です。しかしその場合は、これらの記事が事実であることを、その記事自体とは別の論拠を示して論証する必要があるはずです。たとえば、記事の内容を裏付ける文書や証言を探し出すなどといったことです。しかしそうした作業をしている人は見かけません。

 

そもそも、こうした人々が「朝鮮人暴動記事」の存在を新発見であるかのように考えていること自体が不思議でなりません。こうした記事の画像は、大正時代にネットにアップされたわけではないはずです。ごく最近、誰かが縮刷版などをコピーしてネットにアップしたわけです。では縮刷版は誰が作ったのでしょうか。

 

それなりの専門家が編集し、専門書を扱う出版社が刊行したに違いありません。つまり、こうした記事の存在は隠蔽されてきたわけでもないし、ネット上で初めてその存在が発見されたのでもないのです。

 

さらに言えば、こうした高額な縮刷版を誰が買っているのでしょうか。主に大学図書館や歴史研究者でしょう。つまり、専門家たちは、ネットが普及する以前からこうした記事を縮刷版で見ていた。にもかかわらず、そのことで朝鮮人虐殺についての定説はまったく揺らがなかったわけです。それどころか、先の山本教授のように、こうした流言記事を研究した論文もあります。朝鮮人虐殺を扱った本の中にはこうした「朝鮮人暴動」記事を表紙デザインとしてコラージュしたものさえあります。いや、虐殺の研究者がまとめた「暴動記事を含む朝鮮人関連の新聞記事の縮刷版」さえ存在するのです。

 

なぜ歴史学者たちは、これらの記事を暴動実在の証拠と考えないのか。そこにはそれなりの理由があるはずだと、なぜ立ち止まって考えないのでしょうか。実に不思議です。

 

(文中引用は、読みやすくするために一部の漢字を開き、現代かな遣いに直してあります)

 

 

■このページの引用資料

山本文雄『日本マス・コミュニケーション史』(東海大学出版会、1970年)

山根真治郎『誤報とその責任』(内外通信社出版、1941年)

警視庁『大正大震火災誌』

内務省『大正震災志』(1926年)

吉河光貞『関東大震災の治安回顧』(法務府特別審査局、1949年)

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