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−関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネット上の流言を検証する−

20分でわかる「虐殺否定論」のウソ

All the lies in “denial of massacre” revealed in just 20 minutes.

その2誰も暴徒を見なかった―同時代人の常識だった「暴動は流言」

震災直後の朝鮮人虐殺の原因が、「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」といった流言であったことはよく知られた事実です。ところが「これらは流言ではなく事実だった」と主張する人々がネット上には存在します。つまり、暴動や井戸への投毒は本当にあったというのです。

もちろんそんなことはありません。実際には、当時も、震災の混乱が収まった頃にはこうした流言を信じる人はいなくなりました。当時の警視庁の報告も、これらが流言であり、事実ではなかったという認識を当然の前提として書かれています。なぜでしょうか。自分の目で「朝鮮人暴徒」を見たという人が誰もいなかったからです。震災の数ヵ月後には「あれはデマだった」というのが、警察などの行政機関を含む同時代人の常識となったのです。

警視庁による虐殺事件総括

震災から2年後の1925年(大正14年)、警視庁は震災時の状況についてまとめた『大正大震火災誌』という報告を発表しています。このなかで警視庁は、朝鮮人虐殺事件について次のように総括しています。

 

「震火災によりて、多大の不安に襲はれたる民衆は、ほとんど同時に、また流言蜚語によりて戦慄すべき恐怖を感じたり。大震の再来、海嘯(津波)の来襲、鮮人の暴動などと言えるものすなわちそれなり。大震海嘯の流言は、深き印象を民衆に与ふる程の力を有せざりといえども、鮮人暴動の蜚語に至りては、たちまち四方に伝播して流布の範囲またすこぶる広く、かつ民衆の大多数はおおむね有り得るべき事なりとしてこれを信用せしかば●に震火災より免れたる、生命、財産の安全を確保せんがために、期せずして、各々自警団を組織し、不逞者を撃滅すべしとの標語の下に鮮人に対して猛烈なる迫害を加え、勢の激する所、ついに同胞を殺傷し、軍隊警察に反抗するの惨劇を生じ、帝都の秩序将に紊乱(びんらん)せんとす。而(しこう)して、これがために、罹災地の警戒および避難者の救護上に非常なる障碍を生じたるのみならず、のべて朝鮮統治上に及ぼしたる影響もまたはなはだ多く、誠に聖代(天皇の治世)の一大恨事たり」

(原文カナ。一部漢字を開いた)

 

要するに、朝鮮人暴動という流言を信じた人々が自警団を結成し、朝鮮人に猛烈な迫害を加え、ついに殺傷事件に至ったというわけです。

 

東京以上に混乱がひどかった横浜に警備隊として進駐して治安回復にあたった奥平俊蔵中将(当時)は、横浜で猛威を振るっていた朝鮮人迫害について、

 

「騒擾の原因は不逞日本人にあるはもちろんにして、彼らは自ら悪事をなし、これを朝鮮人に転嫁し事ごとに朝鮮人だと言う。(略)横浜に於ても朝鮮人が強盗強姦を為し井戸に毒を投げ込み、放火その他各種の悪事をなせしを耳にせるをもって、その筋の命もあり、傍々これを徹底的に調査せしに、ことごとく事実無根に帰着せり」

(『不器用な自画像』)

と書き残しています。神奈川の横浜以外の地域についても、当時の安河内麻吉県知事が鎌倉、小田原、川崎といった各地について「(流言は)事実無根」という結論を出しています(「朝鮮人の動静に関する県知事安河内麻吉の報告」)。

 

司法省もまた、「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」の中で、朝鮮人暴動(「不逞計画」)の流言について、「一定の計画の下に脈絡ある非行をなしたる事跡を認め難し」と結論を出しています。つまり、震災下に組織的な暴動やテロがあった痕跡はないということです。

正力松太郎も徳富蘇峰も

実は、警察や軍、政府の一部もまた9月1日の震災発生から数日の間は朝鮮人暴動の実在を信じてしまいました。たとえば、警視庁官房主事の座にあった正力松太郎は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」と正直に告白しています。彼は2日、あるいは3日まで「さては朝鮮人騒ぎは事実であるか」と信じ、その認識に立って行動していました(正力『悪戦苦闘』)。しかし、住民が連行してきた朝鮮人をいくら調べても、ほとんど犯罪事実を確かめることができなかったのです。状況が落ち着いて以降は、行政は「朝鮮人暴動は流言にすぎない」と認識するようになりました。

 

メディアの認識も同じです。戦前の日本を代表する保守派ジャーナリストの徳富蘇峰は当時、国民新聞社長でしたが、同紙に掲載したコラムで「今回の震災火災に際して、それと匹すべき一災は、流言飛語災であった…我が帝国のために遺憾とす」「かかる流言飛語―すなわち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば…赤面せざらんとするもあたわず」と書いています(国民新聞1923年9月29日付)。

 

震災の4ヵ月後に発行された、田中貢太郎・高山辰三編『叙情日本大震災史』は、震災下でのエピソードや過去のデータをまとめ、さらに歴史上の震災について紹介した本ですが、そのなかには、「自警団の暴行、朝鮮人虐殺その他」と題した文章もあります。そこでは、朝鮮人虐殺について

 

「九月一日夜から数日間の帝都およびその付近においては、未曾有の大震災とそれに伴って伝わったでたらめな流言飛語のために、すっかり度を失った民衆によって、まことに恥ずべきところの不祥なる出来事、戦慄すべき残虐事が至るところに現出された。/すなわち鮮人暴動の流言に血迷った自警団の鮮人および鮮人と誤った内地人に対する虐殺事件である」

とまとめています。

暴徒を「この目で」見たという証言はない

こうした認識は、震災下に「暴動」流言によって右往左往した無数の人々の経験からつくられたものでした。暴徒がすぐ近くまで来ていると言われて、竹やリを構えて待っていたのに、結局誰もこなかったとか、あるいは街の至るところに立った自警団が人々を呼びとめ、うまく答えられなかった人が問答無用で殴られたり、ひどい場合は殺されたりしているのを目撃した人が大勢いたわけです。それらの目撃証言は、様々な形で書き残され、語り残されています。

 

逆に、「朝鮮人テロ集団の暴動」「朝鮮人集団と軍の銃撃戦」「井戸に入れられた毒を飲んでもだえ苦しむ人々」といった出来事を「この目で」見たという証言は、震災直後の新聞の流言記事以外には残っていません。

 

こうして、震災からしばらく経ったころには「朝鮮人暴動は流言にすぎなかった」という認識が世間の常識になりました。こうした経緯を知らないか、知らないふりをしている人々が今、ネット上で「朝鮮人暴動はデマではなく事実だった」などと事実に反した荒唐無稽なことを書いているのです。

 

■資料リンク

奥平俊蔵中将の回想

正力松太郎の証言

徳富蘇峰のコラム

■このページの引用資料

警視庁『大正大震火災誌』(1925年)

奥平俊蔵/栗原宏『不器用な自画像』(柏書房、1983年)

「朝鮮人の動静に関する県知事安河内麻吉の報告」(神奈川県『神奈川県史 資料編11近代・現代(1)政治・行政1』神奈川県弘済会、1974年)

「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、63年)

正力松太郎「米騒動や大震災の思い出」(正力『悪戦苦闘』日本図書センター、1999年)

国民新聞1923年9月29日付(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料2』緑蔭書房、2004年)

田中貢太郎・高山辰三編『叙情日本大震災史』(教文社刊、1924年)

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